音楽の編み物

シューチョのブログ

編曲とは、原曲とは別の特殊解へ至らんとする道である。

音楽テーゼ集
 
(5)
一つの音楽作品を編曲の対象としてみるとき、それには、微分方程式の一般解に相当するような、“原曲以前”の原初的側面がある。
 
原曲とは、その微分方程式の特殊解の一つである。
 
編曲とは、原曲とは別の特殊解へ至らんとする道である。
 
 
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  バッハ:シャコンヌ(パルティーBWV.1004第6曲)管弦楽編曲版
 
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、自分のことを指揮者ではなくあくまで作曲家であると自覚していたという。なぞらえて言えば、自分で言うのも何だが他に誰も言ってくれないので言うと、指揮者小西収よりも編曲家小西収の方がまだしも優れている(イケている)のではないかと思うことがある。最近は“21世紀バッハ編曲家”と自称することもしばしばある。これまでにも「小フーガト短調BWV.578」(1994)、「トッカータとフーガ ニ短調BWV.565」(1997)、「チェンバロ協奏曲ニ短調BWV.1052第1楽章」(1999)の吹奏楽への編曲を完成し、前2者はすでに1、2度演奏してもいる。といっても私はバッハ音楽のスペシャリストでは全くなく、作品もいわゆる有名曲しか知らない。そんな私がバッハ音楽への編曲へと指向するのは、ひとえにバッハの音楽における並外れた器の大きさに魅せられたからに他ならない。ベートーヴェンの音楽も、多様な演奏表現の可能性という点では器が大きいが、バッハの場合はそれに加えて特に編曲への受容度が極めて高い(ベートーヴェンはそうは行かない)と考える。実際、バッハの多くの作品が古今の指揮者や音楽家によって様々な編曲を受けてきた。「G線上のアリア」、映画『ファンタジア』の「トッカータとフーガ」、マイラ・ヘスによるピアノ版「主よ人の望みの喜びよ」など、バッハの作品はこれらの編曲によってポピュラーになってきたといってもよいだろう。
 
 「シャコンヌ」の管弦楽への編曲は、すでにいくつもある。そのうち私がまず接したのは、斎藤秀雄版であった。斉藤版を聴いて感銘を受けながらも、編曲楽譜について「私ならこうしたい」という部分があり、それらについての発想が湧いたことがこの編曲のきっかけである。斉藤版が(おそらく)実質はブゾーニのピアノ版からの編曲すなわち“編曲の編曲”であることも少々不満であった。やはり私は、原曲のヴァイオリン譜=バッハの残したテクストから自分が直接読み取ったことをオーケストラ音楽にしたかった。着手は1998年、2、3か月をかけ、7月に大枠を完成した。ごく一部の和声などで、ブゾーニをはじめ先人たちの成果に頼ったところもあるけれども、できる限り丹念に細かな加筆修正を経て、何とか「小西収編」と称せるものが形になったという実感がある。
 
 お断りしておくが、本日演奏するこの「シャコンヌ」は、決して「オーケストレーションの妙を披露する」という類のものではない。もとより、その技法は自分でも呆れるほど拙いことをここに白状しておきたい。それでも下手なりの工夫というのが散在することは確かで、そうした技法は、拙い分だけ、かえって鑑賞者に伝わりやすいかもしれない。中でも「アルペジオの和声化」と「旋律の分節化」は本編曲に特徴的なことであろう。
 
アルペジオの和声化」とは
 
アルペジオ的旋律において、楽器を複数割り当てて一音一音を残して奏することによって、旋律の後半でその旋律が従う和音を響かせる
 
というものである。すなわち例えば「トッカータとフーガ」の冒頭(の主題反復の後)は通常、減7和音が下から上へ徐々に積み重なっていくように奏されるが、あれを旋律部分でも行おう、ということである。バッハのオルガンやヴァイオリンの独奏曲では、アルペジオ的旋律(そこの和声に乗る音のみから成る旋律)が多く現れる。オーケストラで演奏する際、このような部分を和声的に聞かせない手はない、と私は考え、この方法を多用している。
 
「旋律の分節化」とは
 
・長いフレーズの走句的旋律を短く断片的な部分に分け、それを複数の楽器群に1部分ずつ振り分けて、相応の効果を期待する
 
といものである。この逆説的手法によって、オーケストラのあちこちのパートからモグラ叩きのモグラのように音が飛び込んでくる立体感の表出や、旋律の音域を部分的にオクターブ単位で変位させ各楽器の音域特性を活かしつつ旋律を再構成することで、まるでバラバラの糸で編み物が編まれるような聴感をねらった。
 
…と、このように書くと、けっきょく「妙を披露」したいのか、と誤解されそうだが、それは違う。これらはいわば“素人編曲の稚気”であり、それを微笑とともに楽しんで頂けるように紹介したまでである。が、技法的なことより大事な内容的なこと=本当に伝えたいことは、ここに拙文を書くよりも、指揮者として、演奏自体によって表現し伝えたいと考えている。ただ、今回の編曲の作業の過程で、例えば楽器の扱いによる音色変化などの技法上の選択が、自ら表現したい内容上の問題と実は深く有機的につながっていることを、当然ではあれ改めて学んだことも確かである。
 
 私にとって編曲とは、原曲のスコア=テクストに対する自分自身の読解を具現化する手段の一つである。そのような私にとってバッハの作品は、まさに“編曲の泉”であるのだ。今回の「シャコンヌ」においても、先述の吹奏楽編の3曲と比較すればずいぶんおとなしいが、それでも、第31変奏における新動機、第46変奏以降におけるファンファーレ的新動機、そして最終変奏(終結)における展開…と、批判の矢面に立たされそうな部分・場面は少なくない。しかし、原曲の「シャコンヌ」の音楽が持つ普遍的な内容を、微分方程式における「一般解」にたとえるならば、今日の「シャコンヌ」は、いわば微分方程式の一つの「特殊解」の提示のつもりである。少なくとも、けっして、個性のみを安直にキーワードに据えた自己満足的「特異解」を目指しているのではない。指揮者・音楽評論家の宇野功芳は「作品のいのちは、演奏家の主観を通してしか出てこない」(宇野功芳『名演奏のクラシック』 講談社、1990年、48頁)と述べている。私も、芸術表現とは「主観を通じて普遍に至らん」とする営為であると考えている。作品の普遍性は、奥深い「変数(関数群)」としてまずあり、それはつねに、表現者の主観という「初期値(初期条件)」を代入して与えることによって、またそうすることによってのみ、初めて具体化=再生され得るのだ。
 
(2001年)