音楽の編み物

シューチョのブログ

音楽作品は、量子的に振る舞う多様体である。

音楽テーゼ集

 

(4) 音楽作品は、量子的に振る舞う多様体である。

 

 演奏表現とは、音楽作品がそれによって初めて一つの姿に象られて現れ出るような、一つの行為・形態である。音楽作品は、別の演奏表現によっては別の姿に象られて現れる。互いにときに著しく相違する演奏表現のそれぞれのどれもが、作品の真実の姿となりうる。

 

 多様体の語はもちろん数学から拝借した。その本家の多様体とは何か。ここではもちろん、数学における厳密な定義を述べることが目的なのではない。多様体というのは、数学の概念の中では比較的イメージしやすいものである。

 

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多様体とは平面や曲面を一般次元に拡張した概念だと述べた.局所座標系という言葉を使ってもう少し正確に述べると,多様体とは,どこでも好きな所に局所座標系が描けるような空間である.
───(松本幸夫 『多様体の基礎』 東京大学出版会、1988年、3頁)

 

 ボールやドーナツの表面は、なめらかにつながっている。なめらかにつながっているとは数学的には「連続かつ微分可能」であり、微分幾何学という数学の対象になり得る。この意味で、ボールやドーナツ(の表面)は、2次元多様体の例である。

 

 さらに数学の別の分野である代数学では、「群(環)の表現」というのがある。この「表現」と「演奏表現」の「表現」との字句の一致から発想し、「言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (8)」の「音楽作品という多様体の表現論」というタイトルが生まれた。

 

 ここで念のためお断りしておく。上記の「多様体」も「表現」も、用語本来の数学的内容とは特に深い関連はなく、字句的一致を発想源としただけである。もちろん、字句の一致から意味の類似/通底がわずかにでも起こっているとも言えるのもまた当然であるが、それはただそれだけのことである。「量子的に振る舞う多様体」についても同様である(ただ、「量子的」の語句だけは、単独なら、下記に示した通り、メタファーとしてまんざらでもないかとも考えてはいる)。こうお断りできる程度には数学や物理学の初歩を私が十分知っていることはお伝えしておきたい。すなわち、『知の欺瞞』で批判されているような“人文系”諸氏とははっきり異なるつもりである。

 

 加えて、テーゼには「量子的」という言葉も用いた(このメタファーの説明には、朝永振一郎の「光子の裁判」という文章がうってつけなのであるが、それの載った文献があいにく今手もとに見当たらない)。電子などのミクロな粒子については、それ自身に“気づかれずに観測する”ことができない。観測行為がその運動と無関係ではありえないのである。

 

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位置が確定した状態あるいは運動量が確定した状態はありうるが,両者が同時に確定した値をもつことはできないのである.これを不確定性原理 (uncertainty principle) と呼ぶ.歴史的には,量子力学の定式化が一応おわった段階で,ハイゼンベルグがいくつかの思考実験にもとづいて確立したものである.
───(中嶋貞雄 『量子力学I 原子と量子』 岩波書店、1983年、183頁)

 

 一つの音楽作品は、確かに一つの固有の存在としてあるが、その姿は一つの演奏によって表現されなければ現れ得ない。そして、音楽作品はあくまで一つの作品としての唯一性を留めながら、同時に、それの表現は自由な可能性に開かれており、無限に多様な不確定性を持つのである。

 

 「みんな違ってみんないい」と言ってみせるだけでは、演奏表現の多様性の本質には迫り得ないと考える。この「いい」が「違っていてもいい」というだけの「いい」なら、それは「演奏表現の多様性」の観点からは明らか過ぎる前提に過ぎない。重要なのはほんとうに「いい(良い)」かどうかであり、「どれもみなすべてそれぞれ個性的でいい」とは行かないはずだ。違っているそのみんながみんな「良い」とは限らず、しかし同時に、「良い」ものが唯一つに決まるわけでもない。このように、音楽と演奏の世界とは、マクロにもミクロにも一筋縄では行かない複雑広大深遠な世界である。ここでは、そのことを小難しい隠喩をあえて用いて述べることによって確認してみたかったのである。