音楽の編み物

シューチョのブログ

楽譜とはテクストである。

音楽テーゼ集

 

(2) 楽譜とはテクストである。
   
 文章(文学作品、評論、他あらゆる類の文章)とは、書き言葉、書かれた言語である。その典型的な存在の仕方の一つは、白紙に活字を並べて綴じた「テクスト=書物(本)」という存在の仕方である。もっとも、活字の羅列は白地に黒インクの模様が塗り込められたものに過ぎず、それが言語として認識され=読まれることで初めて、文章が文章と成りえる、とも言える。その意味では「テクスト=書物(本)は、文章の《存在以前の状態》の典型である」と言い換えてもよいかもしれない。

 

 同様に、音楽(音楽作品)の典型的な存在の仕方の一つは、白紙に記号を並べて綴じた「楽譜=スコア」という存在の仕方である。それが音楽として認識され=読まれることで初めて音楽と成りえ、その意味では「楽譜=スコアは、音楽の《存在以前の状態》の典型である」と言い換え得るだろう。そこまでも含めての類似・並行が成り立つ。

 

 テーゼが示すのは、「音楽作品にとっての楽譜」とは「文学作品にとってのテクスト」に喩え得る、ということである(→注1)。

 

 ところが、楽譜の中に言語(→注2)が書かれることがしばしばある。ここから、音楽演奏についての壮大な誤解が始まってしまう。「Allegroとあればいわゆる《Allegroの速さ》で演奏する」とか、「cresc.とあればだんだん大きくする」とか、そういう読み取りばかりについ躍起になり、楽譜の中での副次的な要素であるはずのそれらの言語群を、演奏表現における《正しさ》の拠り所へと祭り上げてしまうのである。だが、本来、楽譜における言語とは、いわば文章における注記に過ぎない。確かに、一作家の全集などに付けられる優れた注解は、その作家の作品の読解において大きな助けとなろう。しかし、それはあくまで「注」であって「本文」ではない。

 

 あるいは、楽譜のテクストには、スタッカートやアクセント、スラー、(松葉記号の)クレッシェンド/ディミヌエンドなどのいわゆる表情記号というものも、添えられる。しかしこれらも「本文」ではありえない。また、これらの記号だけが独立に楽譜に書き置かれることなど、通常は考えられない。言語群が注記であるとすれば、これらの表情記号は、いわばルビに相当しよう。

 

 もちろん、一つの書物の全体には本文だけでなく注やルビも含まれており、それらがときに欠かせない役割を果たす。そうでなければそれらが書き置かれる意味がなくなってしまう。しかし、繰り返すが、それらはテクストの「本文」ではない。では、音楽のテクストである楽譜にとって、「本文」とは何か。この答はあまりにも易し過ぎて、わざわざ記すのも気恥ずかしいほどである。《五線上の音符の並び》、これが楽譜のテクストの「本文」である。

 

 したがって、「楽譜を読む」とは、まず何より、その「本文」である《音符の並び》を読み込むことである。それが指揮者・演奏家の本分である。それを、注意書きやフリガナにばかり気をとられ、肝心の本文の読解がおろそかになってしまっては本末転倒である。そして、これも当然過ぎることだが、本文を自分でしっかり読み解くことの方が、フリガナを読むことよりも、はるかに多くの知性を要する難しい作業に違いない。注を理解することとて、作品自体を読む作業とは異なる。そもそも、注とは、《作品について他人が理解した跡》なのであり、大いに参照すべきではあれ、自分で本文に当たっていくこととは作業の質と次元が異なるということを自覚しておく必要がある。今、他人と書いた。多くの文学全集とは異なり、楽譜の言語は作曲者自身が書いたものであり、作者が自前で残した注解を特に尊ぶという姿勢は、まさか間違いではない。が、作曲者とて演奏する「私」にとっては他人である。ときには作者をも脇に置き、作品そのもののテクスト=楽譜を自分で読むこと──それが、読譜の基本である。

 

 f=フォルテやp=ピアノなどの単発の強弱記号については、事情が少し異なる。これらはさしずめ章や節の見出しや段落分けに当たることが多く(→注3)、注やフリガナに比べ、本文とより密接に関わり、より重要な位置を占めるであろう。

 

 しかし、注もフリガナも、さらに見出しや段落分けさえも、それらがなくとも文章はまだ文章として成り立ちえる。それらよりもなくてはならないものは、句読点である。平安文学の原典には句読点が打たれていないと聞く。しかしそれは句読点が「無い」のではなく、「句読的な区切りは確かにあるが、書かれていない」だけであることは明白だ。楽譜のテクストも平安文学の原典と同じく、一般に句読点は打たれていない。楽譜が文章と異なるのは、句読点(句読的区切り)の位置も読譜側=指揮者・演奏家に多く委ねられている点であろう。しかし、句読点を打たなければ(句読的区切りを理解し実行しなければ)その文章が何を言いたいか、もはや判別できなくなる。先に「壮大な誤解」「注やフリガナを読むことばかりに躍起になる」と書いた真意について、お分かり頂けたかと思う。これはアレグロだ、これは行進曲(→注4)だ、クレッシェンドだ、リタルダンドだ、と細かく「その通り」にはしているだろう演奏が、ときに惹き付ける何ものも無くただただ退屈の極みということがあるとすれば、それは楽譜のテクストの句読法に意識が及んでいないからであろう。「わがは、いはね、こであるな、まえはま、だな、い」といった漱石の朗読?に相当するベートーヴェンモーツァルトの演奏が、どうしようもなくつまらなく、どんな演奏であったか少しも記憶に留まらないのも、まことに無理からぬことである。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」と読めば、多少早口だろうがゆっくりだろうが、途中少し詰まろうが、内容は伝わるのである(→注5)。そして、後はまさに、読譜側=指揮者・演奏家が作品を「どう読むか」にかかっている。多様な「読み」の可能性に開かれていることは、優れたテクストが持つ特徴の一つであろう。バッハ然り、ベートーヴェン然り。

 

注1:ここでは“音楽作品─文学作品”という語呂を合わせたに過ぎない。楽譜は、何も「文学作品」に限らず、広く文章に喩えられる。それが本テーゼの主旨である。

 

注2:ここでいう「言語」とは、普通の言語、すなわち、多くはイタリア語の語彙による音楽用語を主とする「指示」のことである。すなわち、テンポおよびその変化、強弱およびその変化などについて添えられる、あの「説明書き」のことである。

 

注3:前期ロマン派くらいまでは、ほとんどこの意味で用いられるのではないか。チャイコフスキー辺りになると、局所的な、漸強弱のスタートやゴールを示すものも見受けられるようだ(「悲愴」に現れる有名なppppppなど)。そうなればそれらは“注レベル”ということになろう。

 

注4:テーゼ集(1) 参照。

 

注5:ここで「読む」ことへの喩えが「読解」から「朗読・音読」へとつい移ってしまった。「文章→読解→朗読」─「楽譜→読譜→演奏」というメタファーも成り立ちえるが、本章のテーマはあくまで「読譜=読解」の重要性である。