音楽の編み物

シューチョのブログ

「楽藝の会」プログラム

2018年6月23日(土)「楽藝の会」プログラム(テキスト版)

 

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・過去の演奏曲目
 さだまさし/小西収編曲:「北の国から器楽合奏
 ブラームス/小西収編曲:ハイドンの主題による変奏曲
 ベートーヴェン交響曲第1番ハ長調作品21より第2, 4楽章

 

・2016年2月「えふゆ会」
 ドヴォルザークピアノ五重奏曲イ長調作品81より第1楽章

 

・2018年6月「楽藝の会」(自主公演)
 フルート独奏 バッハ:フルートソナタBWV1034より第1楽章
 ピアノ独奏 エルガーエニグマ変奏曲より第9曲「ニムロッド」
 ブラームス:悲劇的序曲作品81
 ベートーヴェン交響曲第2番ニ長調作品36
 
  
  トリカード・ムジーカ(音楽の編み物)

 トリカード・ムジーカとは、指揮者・小西収とその仲間の営む音楽合奏の形です。名前はエスペラントで「音楽の編み物」。「音を編む・人と音を編む・人と人を編む」という3つの意味を込めています。人の手が、反復的で制約的なその動作によってかえって大いなる自由を得、毛糸玉一個からあの複雑な編み物を生み出すように、トリカード・ムジーカは、集う人の数と楽器に応じた編曲と自在な動きを伴った演奏をモットーとしています。
 
 
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──編み物をする手。それは、熟れた勢いと素早さを伴って、止まることなく自らの流れを保ちつつ、次々と複雑な形や模様を生み出していきます。その行為は、したことのない者からすれば驚異的な創造的伎倆でありながら、同時に、それをする当人にとってみればおそらく何でもない日常的所作に過ぎません。そのような両義性の中にある「手仕事」が、行為としての「編み物=Trikado」です。そしてその行為の産物としての「編み物=Trikoto」も、しない者からすれば、いかほどの辛抱や退屈を重ねた結果だろうかと途方に暮れる類いの労苦の結晶のように見えるも、編んだ当人からすれば、何ら大げさでない気持ちで、それでいてささやかながらも確かな喜びに満ちて、その小品を眺めるのでしょう。編み物を編む動作は類似的・反復的であり著しく制約的・束縛的であるかのようですが、そうであることによってかえって、手は大いなる自由を獲得し、初めの毛糸の玉一個からは一見とてもできあがりそうにないあの「編み物」を生み出すのです。われわれにとって、音楽を演奏する行為、演奏表現を繰り出していく行為も、一面においてまさにこの「編み物」になぞらえることができましょう。それは確かに喜びを伴う創造です。が、どうということはないことでもあり、だからこそ貴いともいえるのです。神が自然という音楽を演奏するのだとすれば、野に花を咲かせるというその演奏においても、一輪の花それ自体はけっして「大それたこと」ではないし、そうであるからこそその花は花一輪としての価値を確かに持つのです。──
 

 
上記は、トリカード・ムジーカの「名前の由来」と称し、web上で発表した拙文です。柳宗悦(1889─1961)のいう民藝(運動)の音楽版のような活動ができれば…という直観的発想のもとに「トリカード・ムジーカ(音楽の編み物)」を始動してから、約10年が経ちました。当会を「楽藝 ['gakuge:] の会」と名付けたのも、もちろん「民藝」にあやかってのことです。けれども、工藝/民藝の世界と音楽表現の世界を理論的につなぐことなどは(少なくとも今のところ)何もできておりません。民藝に相応する「楽藝」は可能なのか、ありえるのか…、実は甚だ心許ないのではあります。柳のいう「用の美」「無名・多作の美」と音楽表現の主観性/多様性とはどう関わるのか…。まるで対極的な、相反することになってはいないか…。

 
 柳は、「世が美に満ちた暁には美を意識せずともよい」というようなことを述べています。それに対し、合唱指揮者・音楽評論家の宇野功芳(1930─2016)は昔のラジオのインタビューで「人間のきれいな心と汚い心…その双方の葛藤があってこそ芸術がある…だから天国には芸術はないでしょう」と話しましたし、著書『名演奏のクラシック』では「作品のいのちは、演奏家の主観を通してしか出てこない」とも述べています。 それでも── 

 
 今春、「太陽の塔」の内部が復刻されました。それが特集されたTV番組を視聴しながら、個性のある作家より無名の職人の方が美を生み出す力があると言った柳と、個性的表現の塊のような太郎による「太陽の塔」内部のテーマとが、深くつながっていると直感したのも事実です。

 
 柳の愛でた「木喰上人」の微笑と、心の師ブルーノ・ワルターのモットー「微笑みを忘れず」の言葉が私の中でつながっているのみです。